激?レア体験

今週のお題「激レア体験」

 

激レアかどうかは分からないが、私と同じような体験した人にこれまで出会ったことがないのでレアかも知れない。

多分10歳くらいだったと思う、当時キリスト教の日曜学校なるものに通っていた時の出来事です。退屈な時間が終わり子供心にほっと中庭に降り立った時、光の束が私の額を貫きました。私は金縛りのようにしばし動けなくなりました。光は言葉も伴っていた。「神は愛なり」それはその日の聖句というもので、直前牧師の口から聞かされたコトバでした。

そんなことがあって私は初めて自ら聖書を手にとってみましたた。いくつかの聖句が子供だった私にも突き刺さりました。

聖書の中で「わたし」という方に会いたいと思ったのです。

 

「わたし」は私の中に在った。私の中から応えられた。

 不思議な体験が続きました。けれどある日私は気づきました、誰もその事を知らないようだと。目に見えるこの世界だけではない、目には見えないけれど確かに存在する世界があるということを。

思春期を迎えた私は自分がおかしいのかと思うようになったのです。自分を受け入れられない己を否定するということがどれほど人の人生に重く暗く覆いかぶさることか。その後続くこととなった暗く長いトンネル時代のことは省くけれども、結果私の半生はその闇との戦いでした、と同時にあの時観た世界への探究ともなったのです。”人間とは” ”神とは” ”生きる意味とは”。

高校生時代授業時間以外は図書室に、社会人になってからはことあるごとに公演を聞きに行ったり、書物を漁ったりもしました。しかしどこにもなかったのです。誰にも出会うことはなかったのです。

30代後半私はほとほと生きるのが嫌になっり、生きる意味を見出せなくなっていたのです。生きるということがこんなものなら生きる魅力がない、こんな生ならこっちから蹴飛ばそうと思ったのです。自殺するとかそう言ったことではなくただただ蹴飛ばそうと。

 と言ってもそれまで国内外への旅行友人たちとの食べ歩き等たっぷり青春を楽しんだ挙句のこと。たっぷり楽しんだ後ああつまんないと。

ところがその前にあの原点に戻ってみようと決断したのです。その決断で全てが変わり全てが起きたのです。実に多くのことが起きたけれども決定的だったのはある神父と出会いでした。喉から手が出るほどに求めた方でした。この出会いをきっかけに自分を受け入れることが出来るようになっていきました。しかし真に己の存在を全面的に受け入れるようになるのはそれから大分後のことです。師の著書をはじめとして多くの著書文学オペラなどを通し自分に起きたことの意味を知るようになりました。改めて思ったのは決断さえすればコトは起きるということ。なぜなら「嵐が丘」もモーツアルトの「魔笛」も神秘家エックハルトも決断さえしてたなら当然出会うことは十分可能だった人たちですから。

さらに仏教への道も用意されていました。上智大の教授であり神父さんでもある方の手引きで道元禅師の正法眼蔵にも触れさせていただき、後に秋月龍みん氏の著書「般若心経の智恵」には多くの示唆をいただきました。全てを受け入れると腹を括ったことによるプレゼントです。

 

そして分かったことは人間存在の神秘的根源に出会った人たちがこれまで多くいてその体験をそれぞれの文化民族を背景にそれぞれの方法で心を砕き伝えようとしたこと。

私がこどもの時の体験もそこに尽きます。人一人とともなる存在が在るということをあの体験は如実に語っていたのですから。一人一人個性がありそれぞれ違うように当然民族が違えば表現方法も異なります。伝統を背負った表現になるでしょう。根っこは一。

 

God dwells within you as you.

God dwells within me as me.

                           by [eat pray love](映画)