”ゆりなさん”へ
h「わたしの在処」というタイトルでゆりなさんが綴った言葉
耐えきれない。
自分が汚れていくことも。
世界の汚い部分を知ることも。
この世に存在しているだけで、
毎日汚れた言葉が私の耳を通り過ぎていく。
聞き入れてしまったら心が濁る。
墨汁を垂らしたように、
私の心は黒く染まる。
「一度染まった汚れは、
一生落ちないのではないか」
自分の体に染み付いた汚れを確認し、
そして怯える。
私はその恐怖から常に綺麗事を求め、
社会への入口を自ら塞ぐ。
自分も、世界も、完璧でないと気が済まなかった。
以上はひきこもり文学の中で”ゆりなさん”の分の一部
それが私にはとても気になった。なぜなら汚いことを避けているとどうなるかこれまで多くの文学や映画はては昔話もその結末を微に入り細に入り描き出してくれている。
例えば「嵐が丘」(エミリー・ブロンテ)、ジキルとハイド 魔笛などなど
黒い(汚い)ヒースクリフを通して描かれた己の闇を遠ざけたことにより己(キャサリン)は瓦解する。
映画「Mary Reilly」(ジキル&ハイド)で描き出されたのは己の中で肯定できるジキルと隠しておきたい闇の面ハイドを統一することによりメアリーはようやくひとりの人間として旅だつことができた。
実は私自身幼き頃からのキリスト教の影響からだと思われるんだけど綺麗なところだけを追い求めた。結果私は見事に分裂した。そこから脱するきっかけとなったのは全てを受け入れるという自らの決断だった。それこそどうしようもなく追い詰められての末の決断だった。なぜなら長期にわたる分裂は自らを死に追いやりそれしかもう道がなかったかだ。これまで己の身に起きた不思議なことも含め日々感じた様々な感情も全て受け入れていった。そしてようやく私は息をすることだできた。