”ゆりなさん”へ

h「わたしの在処」というタイトルでゆりなさんが綴った言葉

 

耐えきれない。

自分が汚れていくことも。

世界の汚い部分を知ることも。

この世に存在しているだけで、

毎日汚れた言葉が私の耳を通り過ぎていく。

聞き入れてしまったら心が濁る。

墨汁を垂らしたように、

私の心は黒く染まる。

「一度染まった汚れは、

一生落ちないのではないか」

自分の体に染み付いた汚れを確認し、

そして怯える。

私はその恐怖から常に綺麗事を求め、

社会への入口を自ら塞ぐ。

自分も、世界も、完璧でないと気が済まなかった。

 

以上はひきこもり文学の中で”ゆりなさん”の分の一部

それが私にはとても気になった。なぜなら汚いことを避けているとどうなるかこれまで多くの文学や映画はては昔話もその結末を微に入り細に入り描き出してくれている。

例えば「嵐が丘」(エミリー・ブロンテ)、ジキルとハイド 魔笛などなど

黒い(汚い)ヒースクリフを通して描かれた己の闇を遠ざけたことにより己(キャサリン)は瓦解する。

映画「Mary Reilly」(ジキル&ハイド)で描き出されたのは己の中で肯定できるジキルと隠しておきたい闇の面ハイドを統一することによりメアリーはようやくひとりの人間として旅だつことができた。

実は私自身幼き頃からのキリスト教の影響からだと思われるんだけど綺麗なところだけを追い求めた。結果私は見事に分裂した。そこから脱するきっかけとなったのは全てを受け入れるという自らの決断だった。それこそどうしようもなく追い詰められての末の決断だった。なぜなら長期にわたる分裂は自らを死に追いやりそれしかもう道がなかったかだ。これまで己の身に起きた不思議なことも含め日々感じた様々な感情も全て受け入れていった。そしてようやく私は息をすることだできた。

 

アフガニスタン

中村哲氏を取り上げた番組を目にするたび忸怩たる思いを抱く。なぜなら必ずやアメリカによるアフガニスタン襲撃に触れるから。爆弾を降らせる?「ふざけるなアメリカが自ら仕掛けておいて」。

2001年9月11日アメリ同時多発テロ

テロリストを匿ったからという理由でアフガニスタン空爆

 

裏でブッシュが動いたことは私にとっては疑いようのない事実だ。誰が否定しようが私だけは否定しない。出来ない。それは己自らを疑うことだから。

事件を知ったその瞬間おりてくた言葉が”ブッシュ”だった。もちろん私にそんな知識なんぞあるはずもない。あの事件とブッシュを結びつけるような知識なんぞ。ただこれまでの己の人生で降ってくる直感を否定することは出来ない。なぜならそうしたことで魂が死んだ過去があるから。もう二度とそんなことはしたくない。出来ない。

アメリカが爆弾を降らせるんだったら俺らが食料を降らせる」中村哲さんのの言葉

いつでもいま

シャンプーしてるときよく思い出す のの子(ワンコ)熱くなかったかしらってね 自分でも熱いなって思う時なんか特に そんなとき可哀想になったり悔やんだりする のの子が逝ってすでに2年半 思い出してるそのとき私はのの子と一緒にいる

旅先で食べたマルセーユのブイヤベースあの時のテラスの情景一緒に食べた女友だち何十年も前のことだけど思い出すそのときその時すべてはいま私の中に私と共に 今は亡き妹とよく一緒に行ったあのレストランのあの味 あそこのあの食堂で食べたカツカレー 思い出したそのとき匂いも味もよみがってくる 運転できない私のため幾度となく付き合ってくれたっけ 味わった味も匂いもその時のやりとりも思い出すその時いつでも今この時 決して過去のことではないいつでもここに

 

マリアは墓をのぞいた

むかしむかし自分の墓(闇)をくる日も来る日も私は覗き込んだのでした

うめきながら泣きながら己の墓の中を

痛み・哀し・嘆きetcほうむさりたい過去のあれこれ

まいにち毎日くる日も来る日も

ある日自分があの恐ろしい般若のお面になっていることに気づきましたが

それでも震えながら覗きました

なぜそうしたのかその時は分かりませんでした

ただそうするよう促されているかのようでした

 

そうした日々が流れていったある日何かが観えてきたような

般若(悟り)という名があの怖いお面に付けられている秘密を見たような

 

聖書物語の中でもマリアだけイエスの墓を覗きます

他の皆は恐ろしくて逃げ帰っていっただけどマリアだけがという

あのお話

 

ここに秘密があったのですね

 

むかしむかし1

むかしむかし私がまだ子どもだったとき 近くにキリスト教会がありました 毎週日曜日に子どもたちを集め牧師さんがお話をしてくれました だけどボンクラな私にはちっとも分かりません 退屈で早く終わらないかとお話の間そればかり願ってました そんなある日のことでした ようよう終わりほっとして教会の中庭に降り立ち空を見上げたその時でした 光が私の額を貫いたのです ”神は愛である”と言う言葉と共に その日の聖句でした 説法の主題です まるで雷に打たれたかのようなと言う表現がありますが全くそんな感じでした 何があったのか何が起きたのか その事件の後初めて自ら聖書なるものを手に取りました 私は何を思ったか聖書の中で”わたし”と言う方に会いたいと

「わたしの後従いたい者はおのれを捨て日々自分の十字架をになってわたしに従いなさい」 自我を捨てることだと子ども心にも理解しました そしてその方は相を顕されたのでした 私の心奥にいらしゃいました そう真のわたしだったのです つまることすべての人の真我です 聖書も般若心経もこの方のお話でした 法灯明自灯明 おしまい

ストーリーストーリー

むかしむかしずいぶん前のことだがそして経緯も忘れたけど「日本昔話の霊性」と言う本に出会った 日本人ならおそらく誰でもが知ってるであろう昔話 それを深層心理学の立場で読み解かれていてそこに聖書物語そして仏の教えを観た 教会で聞かされた聖書の説教に違和感を抱いた子どもだった私にはどこがどう変に思うのかと知る術はなく ただただ己の感性とのギャップにもがき苦しんだ それもずいぶん長い間そう思春期から30代後半に掛かるまでの長い期間苦しみ続けた あれがストーリーだと教える人気づかせてくれる人はいなかった そうあれはストーリー 真実に触れた人たちがどう市井の人びとに伝えようかと心を砕き言葉を尽くして語られてきた物語 だからこそどこかの何かの言葉がそれに触れた人の魂に触れ魂を呼び起こし覚醒させる 

海の中に母が

着なくなった服と共にのの子の服やブランケットも一部を除いてゴミ袋に入れた

後悔も一緒に入れた もっと愛してやれば良かったもっと早く一緒にいる時間を増やせば良かった しかし死んだ時ホッとしたのも事実 17歳半と犬としては高齢で心臓もやられていた 歩くことも不確かになりクルクルと回っていたそれは認知症の印だとも聞いた だけどもっと何かできたはずだもっと愛せたはすだ そのことも忘れない忘れようとは思わない 感じたこと思ったこととともに一緒に沈むそのことの神秘・文字通り神様の秘密を知っているから

辛くなったらそこでやめれば良い だけどできるだけ己の内なる負を受け止める 嫉妬・怒り・哀しみそれらの沼に降りたつ そこで何かを知るからそう何か真実に触れることができるからだ 耐えられなくなったら逃げる 無意識の中に逃げてる事も度々あるそしてそれでいいのだと思う 沼と言ったが海の方がより的確かも なぜなら文字通り母は海の中にいるから フランスでは母(mère)の中に海(Mer)がと誰か詩人が言ってたね