掴もうとすると煙と化す

鏡→かがみ→鏡→かがみ→

かがみ←鏡←かがみ←鏡←

永々と繰り返す

ここに真の世界を観る

感じ触ることのできる確かな世界

しかし掴もうとすると煙と化す

 

このカラクリを知らず

悩み苦しみもがきあがいた

ついに降参し両手を挙げ

手を離したそこに秘密があった

 

そこに観たのはかがみ

鏡が映し出した己の暗闇

醜さ卑称さ辛さ痛み後悔

だがその向こうにまた鏡が

 

わたしを抱きしめ赦るし

慰さめ包み込む何者かを

鏡は映し出した

神秘の扉が開いた瞬間だった

 

 

 

すべてのことはメッセージ♪6

もうかなり前だったけど

私の田舎で吊り橋が落ちる甚大な事故があった。

そのとき運良く難を逃れた方がインタビューに応えてて

それをたまたまラジオで聴いた。

子どもと一緒に神社のお参りをすませ橋を渡ろうとしてたところ

子どもが売店に寄った。

いつもだったら「何してるの。早く来なさい」と言うんだけど、その時は

一緒に子どもに付き合った。その直後だった。

大爆音がして振り向いたら橋が落ちた。

 

またこんな話を何かで読んだ。

あの9.11の時何かを感じてなんとなくビルの外にでた。

事件が起きたのはその後だったと。この方は日本人だったけど

他にもおそらく同じように助かった方がいたのではと思う。

 

似た話よく聴いたり耳にしたりしますよね。

何か感じてたまたま降車したとか飛行機を見送ったとか。

 

ある男性が落ちて来た岩かをよけて助かったという話。

「危ない」って声を耳にしたと。

その声の発生主は「自分」だったと後に知った。

 

私たちは様々な形でそのメッセージを受ける。

だけど己のことだけにかまけていると聴く余裕がない。

目に見えないけれど確実に在る世界をも感じて生きていると

つねに何らかのメッセージを受ける。

あたり前のようにそこらじゅうにメッセージは在る。

 

少なくとも縄文人はそのように生きていたと

土偶が教えてくれた。

 

色即是空空即是色ということばが生まれたのも

そういう方々が確実にいてそういう方からの私たちへの

メッセージだと思う。

 

 

 

シュレ猫

シュレディンガーの猫という立派な物理学用語があるらしい。竹内薫さんのネコメンタリーで知った。竹内さんは略してシュレ猫と言っていた。知ったといっても内容なんて私にはとんと理解できないけれど、ただ「一匹のネコが死んでいても生きていても不思議ではない」ということばだけを私の脳は抜き取ってしまった。

 

ネコはあの世とこの世を行ったり来たりしてるなんてことばを以前耳にしたことがある。そのとき、ああそもありなんなんて思った。

およそ30年ほど前神父さんの庵を訪ねたときのこと。そこに毎日ごはんをもらいに来るネコがいた。飼われてるような外ネコのような感じで気ままに過ごしてるようだった。

 

その庵に初めて泊まりに行ったときのこと、ミサが終わり暗闇の中を食堂と言われてる皆が集まるところへと向かっていたときのこと。そのネコさまが私の足下を絡みながらついてきた。

その話を近くにいた人に話した。それを耳にした神父さん曰く。

「ネコは分かるんだよ。」

 

ネコは半分死んでて半分生きてる

この私も全く同じだとずっと以前から感じてる。

そう、子どもの時分からそんな感覚があった。

 

この目に見える世界と目には見えないけど

確実にある世界そしてこの目に見えない世界のほうが

よりいっそう現実なのだ。

 

喉から手が出るほど知りたかったこと4

1)で書いた体験がどういうことだったのか何を意味するのか知りたくかつ自分が体験したこと観た世界は本当だったと確認したくその後喘ぎもがき続けた。それは長く永い時を要した。

 

誰も知らないようだと気づいた私は己を疑うようになって、そして浦島太郎がしたように玉手箱を開けた。体験した事をそのまま抱いていればいいものを、理解しようとしたのです。太郎がおじいさんになったように私もすっかり老いてしまいました。一気に生気を生命力を失ってしまった、のです。

 

しかしあの生命に満ち満ちた世界が恋しくないはずがありません。

中学高校生になってからは誰かそのこと書いてはしないかと図書をあさり、教会で講演があるたび足を運びましたが誰ひとりいません。

 

大人になった私はいつしか諦めるようになってましたいた。それまでもずっと探し続けたのですがどこにも誰にも出会えなかったのですから。

 

つまらない。この世は生きる価値がない。

生きる気力をすっかり無くした30代後半の私がいました。

この世の楽しみつまり若者がしたいと思う楽しみ、食べ歩き旅行ファッションいつしかそれらで気をまぎらわしたあげくの絶望でした。

 こんな世界だったらこっちから願い下げ、蹴飛ばしてやろう。

 

その前にも一度あの原点にもどると決めたとき、そのとき、風がおこり世界が動いたのです。(続く)

 

 

 

喉から手が出るほど知りたかったこと3

私は”だれ”なのか

神は”何者”なのか

生きるとは生命とは

 

求めて求めて

そしていま現在至ったところは

まったくの根源

あたりまえの世界

 

聖書や仏典にと

先人は物語に託し

それぞれの文化を背景に

心をくだき魂のすべてをかけ

ひとりでも多くの人へ伝えるべく

一筆一筆綴った

 

あたりまえの世界

まったく普通かつ普遍の世界

そべてがあたりまえとなる世界

 

そんなあたりまえの世界をエミリー・ブロンテ

嵐が丘という物語に託し

ロバート・ルイス・スティーヴンソンは

同じくジキルとハイドによせた

 

なぜなら私たちは今ここに息き

ここにのみ生きてる

これからもずっと追い求め続け

ここにしかほんとうには生きられないから

 

 

喉から手が出るほど知りたかったこと2

神は沈黙なんかしてない

 

私たちが

耳を塞いでるだけ

観ようとしないだけ

 

ただ息してるそのただ中にいる包まれてる

感じ触ることができる

そうこのあたりまえの世界実感できる存在

不思議な出来ごとなどでまやかしてはいけない

しかし不思議なこともあってあたりまえの世界

そういう世界に私たちは生かされてる

 

 

 

喉から手が出るほど知りたかったこと

光に額を刺し貫かれるというコトが起きたのは

私が10ばかりの頃この衝撃的な事件をきっかけに

私は初めて自ら聖書を手にした

 

それまでは所謂日曜学校というものに行ってはいたものの

それはクリスマスのお菓子につられあるいは一度始めたことは

続けなさいと母に言われ仕方なく行っていたのである

 

そんな中で起きたそれは事件だった

聖書の中で”わたし”という方に会いたいと

私は単純にそう思った

 

聖書の中でイエスは言った

「わたしについてきたいと思うなら己を捨ててついてきなさい」

幼い私にもその意味するところは分かった

 

そしてそれが出来たのだろう

”わたし”という方は私に応えられた

”わたし”は私の中に私と共に在った

 

神というものがあるとすればこの神より他に無かった

”私の中に在た”この事実が語ることそれは

すべての人の中にすべての人と共にということを意味したから

 

それから実にさまざまな事が起きた

動物や植物とも一体であるという体感

目に見える世界と目には見えないけれど確実に在る世界

 

いつもその両方を同時に感じ生きた

生命に満ち満ちた世界を知ったのだ

私は愛に包まれ歓喜に満たされた

 

しかしその日々は長くは続かなかった

なぜなら誰も他の人はその世界を知らないようだと気づくのに

そう時間はかからなかったから(続く)

 

 

光あれ」と言われた。すると光があった。 「旧約聖書 創世記」