なにをおそれるか2

 

 

私たちは生まれたときから良い子にと育てられる

家庭で学校でその小さな社会でことあるごとに言われる

良い子になりなさい

親の言う事を聞く良い子

先生の言う事を聞きなさい

そのうえ神さまの良い子に?!

 

人間社会での良い子と神さまにとっての良い子は意味が違う

ある意味真逆かもしれない

神様の良い子は神様に従う子内的促しに添う子

内的促しに添うとき人は親や大人の言う事を

時には避けなければならないことがある

それは大人にとって教会にとって都合わるいことでもある

 

内的促しに添うとは

神さまがあらしめたままの自分を受け入れること

それによって自ずと私たちは矯められるのであって

自分で自分を矯めるのではない

自分で矯めるとき偽善が生まれ生命は衰弱する

 

宗教は道徳ではない

含みはするがイコールではない

なのに道徳と捉えまたそう教える大人がいる

なぜならその大人が”神様の良い子”の真の意味を知らないのだから

なぜならその大人が怯えて生きているのだから

 

わたしが真には恐れたのは私になること

”自らに由る”こと

何よりも恐れ十代にしてもはや老人と化し

生きてることを嘆き苦しみもがいた

自由にするはずの宗教が縛るものになりさがるとき

がんじがらめの中で命は萎える

 

 だがあるがままを受け入れるとき

何かが起き生命は息を吹き返す

 

人と違うことを恐れるな

人から無視されることを恐れるな

人から見放されることを恐れるな

神から見放されることを恐れるな

 ”わたし”は共に在ると”神”はいう

 

”おそれるな”と神は言う

あなたを見放すことはない

なぜなら共なる存在なんだからと

信とはその”わたし”を信じることだと

 

 

 

 

なにをおそれるか

 

なにより恐れたのは自分になること

そして自分であること

そして今もその名残はある

なぜなの わたし?

 

自分が思っていたところの自分を捨てる恐怖

他者が持っているだろうところのイメージを壊す恐怖

自分も知らない全き新しい自分を生きることの恐怖

これらはある程度消化したと思っていたけど

NHKこころの時代「なにをおそれるか」を観て

まだまだデーンと居座っていることに気づいた

 

毎瞬私を誘うコトバがある

”すべてから離れ真の己になれ”

我を脱ぎ捨て真我を生きろ

今後一切の未来から離れろ

己の計画のすべて放棄しろと
 

ソコにしか真の生命はないのだから

知っていながらいや知っているからこそ

この世に私を引き止めるものがある

それは習慣そして恐怖

すべてを委ねないのであれば

ソコでは生きられないから

 

 

 

 

 

 

 

孤独な鳥の条件

孤独な鳥の条件は五つある

 

第一に孤独な鳥は最も高いところを飛ぶ

第二に孤独な鳥は同伴者にわずらわされずその同類にさえわずらわされない

第三に孤独な鳥は嘴を空に向ける

第四に孤独な鳥ははっきりした色をもたない

第五に孤独な鳥は非常にやさしくうたう        

            サン・ファン・デラ・クルス(16世紀スペインの詩人)

 

”ここ”は人にとって一番恐ろしいところ。なぜならたった一人にならないと行けない”場”だから。それでいて一番心地いいところ。その狭間で私は揺れる。ずっと揺れ続けている。生き身の私にとっては怖いところ、だけどもう一人のワタシにとっては心地いいところ。

知っていながらどこまでいつまで足踏みするの!?わたし。

 

 

サン・ファン・デラ・クルスの名はこの詩を通して今回初めて知った。十字架の聖ヨハネの名はこれまで何度か耳にしたことあるけどその方だったのね。

 

ジキルとハイド

 
自分の中に闇を見それらを丸ごと受け入れるには命を削る覚悟なしには出来ない。
実際は命を削るという言葉すら甘くてある意味死ぬ覚悟で望まないと出来ない。
 
己の闇を観ることの過酷さをつぶさに描き出している映画「ジキルとハイド」。
Mary Reilly 役のジュリア・ロバーツが非常に細やかにその過酷さを表現している。
Maryの中のジキルとハイドその統合の物語。
原題は Mary Reillyでジキル&ハイドではないところがみそ。
 
「ハイド」隠されてるあるいは隠してきた面をしっかり受け止めてこそ人格は統合される。だけどこのカラクリはなかなか分かり難かった。人生の半分を費やしてなお難かった。気づけばつい都合の悪いことはなかったことにしようとしている。
ラクリが分かった今も闇の蓋を開けることはその度勇気がいる。
だけど意を決して蓋を取ったとき命の神秘を知る。
 
聖書は墓(闇)を覗き込むマリアとして物語った。
屍累々の墓を覗き込まない限り真実は得られない。
 
 

 

あるがままうけとめたとき

 
自分が(観たこと)体験したことを
肯定してくれる人に出会えなかった
 
そうだよと言ってくれる人が
周囲に誰もいなかった
 
誰もソノコトを知らないのだと
幼い子ども心に気づいた
 
子供だった私は絶望ににた
思いにかられ悩み苦しんだ
 
 
出会えなかったのは
自分を信じなかったから
 
己の身におきたことを
受け止めきれなかったから
 
あるがままうけとめたとき
何かが起き何者かが発動する
 
あるがままに受け入れたなら
命の神秘に触れる
 
 
 
 
 
 
 

墓の中に見たもの

わねたみうらみそねみ
いかりあせり
悪意殺意後悔
異臭悪臭死臭
 
ひからびた己の骨
黒く汚れた己の肌
墓の中に
私が見たもの
 
3日が経ち
さらにその奥に
それらを通して
私が見たものは
 
”だれ”かだった
すべてを赦す存在
共なるかた
真莪だった

 

祈る

 
真に祈るときまるで天と地の間に浮遊してるようだと私は思う。
自分をつなぎとめているものから離れ上にあるモノに身を預ける。
あるいは斜め上から頬をなでる風に身をまかせる。
その状態が祈るということではないかと私は思う。
 
本当に祈るというのは大いなるモノとの対話なのだからどこにも自分を
つなぎ止めることなく浮遊していなければならない。
そうでなければそれは祈りではなく一方的な願い事になる。
決して”聴く”体勢ではなくああしてくれこうしてくれと
命令してるようなものだと思う。
本当の願いあるいは本当に願うとは向こうからやってくるものだと思う。
こちらからのかってな願いではけっしてないと思っている。
かってな願いではないが願わないことには繋がらなことも確かでこの場合の願いは願ではなくて祈りに繋がる願いだと。
誰の思想にも頼らずたった独り”向こう”のコトバに”こちら”のことばを合わせる。
ここにしか”祈り”はないと思っている。
 
そんななかたまたま観た「SWITCHインタビュー達人達」(NHK)の中で船越桂(彫刻家)が作品『水に映る月蝕』の説明で彼が言った”祈り”と言う言葉がとても印象に残った。
『この腕が翼ってわけではないんですけど、お腹の丸みと手の形で浮いている姿に思えてひとつ考え方のヒントになって祈るっていうのはこう現実から少し離れられるあるいは大地から離れるという姿をとれば「祈る」ということにならないかなと思った。』
 
 
『祈る=息にのる』これは親愛する故押田神父のことば