甦りの記録
自分の感情を自分のモノとして勝手に操って
自分の感情を自分のモノとして勝手に操ってる
聖書は神の国への扉のひとつ
ストーリーとして追うと支離滅裂ともみえる聖書
しかしそれは魂の世界をコトバをもって伝えようとしているから
だから一句一句魂で読むとき
天の国へと私たちを招く扉となる
わたしの後に従いたい物は、己を捨て、日々、自分の十字架をになって、わたしに従いなさい。自分の命を救おうと望む者は、それを失う。
(ルカ9.23〜)
聖句はあなたの魂に直に呼びかける”声”そのもの
聖書の中で”わたし”という方に会いたいと
当時小学生だった私は思った
ただ単純にそう願った
”わたし”は私の中に在った
そのとき深奥にあって共なる存在と知った
幼な子たちをわたしのもとに来るままにしておきなさい。止めてはいけない。神の国はこのような人たちのものだからである。あなたたちによく言っておく。幼子のように神の国を受け入れる者でなければ、けっしてそこに入ることはできない。 (ルカ18.15-17)
のの子(ワンコ)のこと
のの子が逝ってほぼ3ヶ月になる
17歳半だった
最初の1ヶ月は笑うことが出来なかった
いなくなったことすら口にできなくて
「これまで可愛がってくださってありがとう」
かわいがってくれた人たちにメールでお知らせした
泣かずに話せるようになったのはおよそ1ヶ月過ぎた頃
それまでは涙でつまって言えなくなっていた
度重なる引っ越しをはじめあの子を取り巻く環境幾度となく大きく変え振り回してきたと
もっとのの子の立場にたって考えてあげれば良かったと
悔いてばかりいたある日気づいた
それってわたしのおごりでは?
のの子は私を育てるために使わされて来て
その役目を果たして逝ったのだと
もちろん今でも悔いる心がチラチラ顔をだすけど
長い間ありがとうってそう思える
だけどだけどせめてもう少し生きててほしかった
わたしの浦島太郎物語
聖書の中で”わたし”という方に会いたいと思った。
小学高学年だった。
ただそう思った。
そして私『I』は”わたし”『I AM』に会った。
”わたし”は私の深奥に在った。
私の命そのものだった。
そこは死の陰すらなく命に充ち満ちていた。
ある日私は気づいた。
周りにその世界を知ってる人はだれもいないということに。
なんだか自分だけが違うということに。
思春期を向かえていた。
自分に起きたこと自分が観た世界を理解しようとした。
玉手箱を開けたのだ。
それまでの世界は煙と化し
生命はたちまち萎えた。
竜宮城を遠く離れ泣きながら独り彷徨った。
どこにも真の食べ物はなく喉はひりつき渇いた。
野たれ死にそうになったそのときようやく決断した。
あの世界にも一度帰ると。
”わたし”という方がそこに待っていた。
ふたたび私は命を取り戻した。