手紙

こんにちは

メール拝見しました。

「この世に魅力を感じなくなって旅行にグルメ&おしゃれをのところはちと訂正させてね。

故郷(魂)の喪失感はずっと抱いてはいたけど、それとは別に心から楽しんだのも事実です。たっぷり楽しんだ末ああつまんない、と。生きるということがこの程度のことなら蹴飛ばそうと思ったのです。

具体的に死を考えたわけではありませんがただ単純にもう十分だと。

だけどその前にあの世界に戻ってみようと。

誰も肯定してくれなくてもいい。

あの生命に満ち満ちた世界に。

それは”あの方が私と共に在ると実感した日々ですした。

命に満ち満ちた日々。

生命に満ち満ちた世界。

目に見えない世界見える世界との間に何ら区別のない世界。

違和感なく当たり前に存在してる世界。

そんな日々がしばらく続いた後、気付いたのです。

他の人は誰も知らないみたいと。

誰もその世界を知ってる人はいないようだと。

そして自分を徐々に疑うようになっていました。

自分がおかしいのではと。

だけど確かに体験した世界をそう容易く否定することなんて出来やしません。

それからは探しに探しました。

子どもだったので範囲は限られてますが著名な牧師さんが講演にやってくると知れば足を運び、また学校の図書館へも頻繁に出入りしました。

授業以外ほぼ図書館にいた覚えがあります。

誰かひとりでもいいあのことに言及してる人いないだろうか。

主に宗教書思想書を貪るように読んだのですが、どこにも見つけることができませんでした。

無論社会人になってからも本屋巡りをしたり有名な牧師さんのいる教会を訪ねたりもしましたがいつも残念な結果に。

「ああ、この人も知らないと」

そのうちいつしか諦めたのでしょう。長年探し求めた結果に涙も枯れ果てたみたいな(笑。

 

東京での生活にも慣れ親しい人もできその間のことはあなたも知ってのようにいっぱしの若者らしい都会での生活を楽しんだものです。

本当の意味での謳歌にはほど遠いのですが、楽しんだのは事実です。

自分なりにたっぷりと楽しんだ挙句「ああ つまんない」と。

「生きていく意味ないかな こんなんじゃ」 

蹴飛ばそうかな

 

 

蹴飛ばすその前にも一度あの原点に戻ってみよう

 

風が動きました。

私の想像をはるかに超えて。

あれほど会いたかった方の元に連れて行ってもらったのです。

自分で歩いてるような誰かに運ばれてるような。

歩いてるのはむろん私自身なのですが、何だか頭から糸で吊るされて彼の方がはいここですよ、次はここですって運んでるといったそんな感じなんです。

自分の意思であると同時に彼の方の思いが一緒に活いてるそんな感じ。

この出来事が教えてくれたことは決断さえすれば腹を括りさえすればコトは運ぶということでした。

それまで出会うことができなかったのは私自身の意思そして決断がなかったからだとこのことは教えてくれました。

彼の方は人間の意思を決定的に尊重されるます。

勝手にことを進めることはなさらない。

そう私たちは一体だから。

 

10歳の時の啓示体験からおよそ30年経ってました。

この孤児時代は私にとって実に必要不可欠の貴重な体験だったと後に納得しました。

時が満ちたならコトは成るという実に貴重な体験でした。

それからは私を啓蒙するためにとしか思えないほど様々な出会いがあり、それは人であったり著書であったりですが実に多面的に世界を押し開いていただきました。

仏教の出会いもおおいに私を助けてくれました。

仏教は聖書物語を別の面から説いてくれました。

忘れてならないのが日本昔話の言い伝え。

深層心理学の面から読み解いてくださったシスターによる著書はまさに昔話は聖書であり般若心経だと目を開かされました。

民族の言い伝えがこれほど深い人間存在の意義を秘密を伝えてきたことに今更に驚いています。

 

話は少々飛びますが、私たちは人とどこかで繋がっていなければ耐えられない存在であると同時に唯一無二の存在でなければ生きていく意味も意義も見出せない存在だと思います。

彼の方の秘技はそれを同時に満たしてくれました。

「矛盾の極みに彼の方在り」

以上が私個人に起こった物語ですが、同時に全ての人に起こりうる物語だと思います。

聖書は宗教ではない普遍(カソリック)の物語だと言われる所以はここにあると思います。

ではまたお便りします