十字架のなぞ

あなたの中の誠の”言葉”を私たちはたびたび無視する。

無かったことにするまたは聞かなかったことにする。

都合が悪いことは聞き流すあるいは面倒だとまるで虫を捻り潰すが如く無きものにしたい。

時には最も酷いやり方で。

しかもその自覚すらなく。

 

このことを思うとき思い出す文章がある。

 

「多くの人が彼に驚いたように

彼の顔立ちは、そこなわれて人と異なり、

その姿は人の子と異なっていたからである。(中略)

彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、

われわれの慕うべき美しさもない。

彼は侮られて人に捨てられ、

悲しみの人で、病を知っていた。

また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。

われわれも彼を尊ばなかった。(中略)

とがある者と共に数えられたからである。

しかも彼は多くの罪を負い、

とがある者のためにとりなしをした。(イザヤ52,13〜)」

 

「十字架に架けられた人物を崇める宗教って信じられない」

ある宗教の信者だと言う若い女性が私に向けた言った一言。

当時(20代前半)の私は応える言葉を何も持たなかった。

 

しかし今わたしは言う。

十字架に架けたのは私たちの業だと。

 

あってほしくない欠点を克服しようとした過去。

認めたくない過去や忌まわしい出来事は無かったことに。

裏切った過去、問われいとも簡単に否んだことも蓋をして無かったことにしたこと。

それらすべてがを人の業なんだと。

その行為それこそが生命の根源者に対する裏切りなんだと。

 

幾度彼を私は十字架にかけてきたとか。そのことを知った今も度々不都合なことから目を背けようとする。しかし己のありのままを負も聖もしっかりこの手に掬い取るとき私は彼を身近に感じることができる。そしてその度彼は私を赦す。どこまでもどこまでも許す。

そして彼の母は私をそのマントに優しく包み込む。