子どもだった私へ

あなたが感じたこと感知したことあなただけは信じてあげて。

それが特殊であれば特殊であるほど怖いよね。

でもあなたが疑ってしまうと自分が壊れちゃうよ。

声とは違う”ことば”を受けとるということがあってもそれは体質と思って受け止めてね。

周りに同じような体験した人がいないと気づいた時怖かったね。

この大人は知ってるかもと講演や説教を聴いても都度ガッカリ。

著名な方の著書を漁っても納得できるものに出会うことなかったよね。

あげく自分を疑ってしまった。

もしかして自分がおかしいのかと。

一番関心あることいつも心を占めてることを誰とも共有できなかったこと孤独だったよね。

そんな君のターニングポイントとなったのはありのまま全て受け止めると腹を括った時だった。

それからは出会うべき人に著書に出会えたよね。

そして君は源点に戻れた。

そう決断があなたを引き戻したんよ。

 

私にとってのキリスト教

10ばかりのとき額を光に差し抜かれたその驚きから聖書というものを初めて自ら手に取って読んだ聖書の中で”わたし”という存在に”会いたい”単純にそう思ったそして出会ったそう誰の中にも住んでる核なる存在仁なる存在私にとってキリスト教とはただそれだけそれ以外の意味はない

ことば以前の世界

「あなたに会いたい」(聖書の中で”わたし”と名乗る方に向けて)

”わたしだ”(言葉ではなく確かに私は聴いた)

 

”ここの近くに住むよう”(自転車道路を走っていた時突然降りて来た言葉ではない”ことば”その理由は数年後知ることに)

 

「どこでしょう」(店の移転先を探していたとき)

”ここ”(通りかかったある店先で言葉としてではなく”思い”として降ってきた)

「どこでしょう」(次の借りぐらし先を模索してたとき)

”ここ”(映像が降りて来た)

 

土偶たちは溢れんばかりの”愛”で私を包み込んだそしてしばらくそこを立ち去ることができなかった(かつて新宿であった三内丸山遺跡展でのできごと)

 

道がAとB二つに分かれているときAに対して”No!”と思いが降って来たならそこで止まることを私は知っているたとえそのことで不快に思う人があったとしても選ばない理由にはならない

 

 

猫は空き地で向こう(彼岸)とこっち(此岸)を行ったり来たり

窓の外は雨まじりの空

部屋には薄緑のウンベラータ

 

心はそして見えないものを映し出す

のの子はいつもここにいて

辛い過去のあれこれ嬉しい思い出も

今確かにここに

すべてがわたしの中どこも何も切り離すことなどできない

 

見えないもの心の鏡に映しだす

深奥から見えてくるものがある

大事な大切な何か

 

対の鏡に更にその対の鏡へと

繰り返し繰り返す

 

鏡のマジック

古の人びとは知ってたに違いない

鏡は鏡へと繰り返し心の景色を映し出す

そして真実が見えてくること

 

隣の空き地で猫は向こうとこっちを行ったり来たり

 

 

 

 

 

 

手紙

こんにちは

メール拝見しました。

「この世に魅力を感じなくなって旅行にグルメ&おしゃれをのところはちと訂正させてね。

故郷(魂)の喪失感はずっと抱いてはいたけど、それとは別に心から楽しんだのも事実です。たっぷり楽しんだ末ああつまんない、と。生きるということがこの程度のことなら蹴飛ばそうと思ったのです。

具体的に死を考えたわけではありませんがただ単純にもう十分だと。

だけどその前にあの世界に戻ってみようと。

誰も肯定してくれなくてもいい。

あの生命に満ち満ちた世界に。

それは”あの方が私と共に在ると実感した日々ですした。

命に満ち満ちた日々。

生命に満ち満ちた世界。

目に見えない世界見える世界との間に何ら区別のない世界。

違和感なく当たり前に存在してる世界。

そんな日々がしばらく続いた後、気付いたのです。

他の人は誰も知らないみたいと。

誰もその世界を知ってる人はいないようだと。

そして自分を徐々に疑うようになっていました。

自分がおかしいのではと。

だけど確かに体験した世界をそう容易く否定することなんて出来やしません。

それからは探しに探しました。

子どもだったので範囲は限られてますが著名な牧師さんが講演にやってくると知れば足を運び、また学校の図書館へも頻繁に出入りしました。

授業以外ほぼ図書館にいた覚えがあります。

誰かひとりでもいいあのことに言及してる人いないだろうか。

主に宗教書思想書を貪るように読んだのですが、どこにも見つけることができませんでした。

無論社会人になってからも本屋巡りをしたり有名な牧師さんのいる教会を訪ねたりもしましたがいつも残念な結果に。

「ああ、この人も知らないと」

そのうちいつしか諦めたのでしょう。長年探し求めた結果に涙も枯れ果てたみたいな(笑。

 

東京での生活にも慣れ親しい人もできその間のことはあなたも知ってのようにいっぱしの若者らしい都会での生活を楽しんだものです。

本当の意味での謳歌にはほど遠いのですが、楽しんだのは事実です。

自分なりにたっぷりと楽しんだ挙句「ああ つまんない」と。

「生きていく意味ないかな こんなんじゃ」 

蹴飛ばそうかな

 

 

蹴飛ばすその前にも一度あの原点に戻ってみよう

 

風が動きました。

私の想像をはるかに超えて。

あれほど会いたかった方の元に連れて行ってもらったのです。

自分で歩いてるような誰かに運ばれてるような。

歩いてるのはむろん私自身なのですが、何だか頭から糸で吊るされて彼の方がはいここですよ、次はここですって運んでるといったそんな感じなんです。

自分の意思であると同時に彼の方の思いが一緒に活いてるそんな感じ。

この出来事が教えてくれたことは決断さえすれば腹を括りさえすればコトは運ぶということでした。

それまで出会うことができなかったのは私自身の意思そして決断がなかったからだとこのことは教えてくれました。

彼の方は人間の意思を決定的に尊重されるます。

勝手にことを進めることはなさらない。

そう私たちは一体だから。

 

10歳の時の啓示体験からおよそ30年経ってました。

この孤児時代は私にとって実に必要不可欠の貴重な体験だったと後に納得しました。

時が満ちたならコトは成るという実に貴重な体験でした。

それからは私を啓蒙するためにとしか思えないほど様々な出会いがあり、それは人であったり著書であったりですが実に多面的に世界を押し開いていただきました。

仏教の出会いもおおいに私を助けてくれました。

仏教は聖書物語を別の面から説いてくれました。

忘れてならないのが日本昔話の言い伝え。

深層心理学の面から読み解いてくださったシスターによる著書はまさに昔話は聖書であり般若心経だと目を開かされました。

民族の言い伝えがこれほど深い人間存在の意義を秘密を伝えてきたことに今更に驚いています。

 

話は少々飛びますが、私たちは人とどこかで繋がっていなければ耐えられない存在であると同時に唯一無二の存在でなければ生きていく意味も意義も見出せない存在だと思います。

彼の方の秘技はそれを同時に満たしてくれました。

「矛盾の極みに彼の方在り」

以上が私個人に起こった物語ですが、同時に全ての人に起こりうる物語だと思います。

聖書は宗教ではない普遍(カソリック)の物語だと言われる所以はここにあると思います。

ではまたお便りします