自身ほど謎の存在はない

 

 

自分という存在のいかに謎に満ちていることか

自分ほど謎な存在はないと思います

一人の人間は無数の他人を含んだ存在だから

 

若かったとき演劇って何だろうと考えたことがあります

ウソっぽいよね

少なくとも真実ではないよねって

 

ある日他者のクセを真似てあることに気づきました

脳内での真似でしたがなんとなくその方の思いに

触れたような気がしたのです

 

このちょっとしたことがきっかけで

例え脳内であろうと他者のクセを真似たなら他者の

少なくともその時点での心境が少し理解できると

 

演劇ってそういうことかなって役者は

幾つもの他者を真似ることによって他者と共に生き

そのことに思い至るのではないかしらん

 

演劇をとりあげるまでもなく私たちは

つねにこの演劇状態ではないかしらんと

身近な人々はおろかすれ違っただけの人映画の中の人

 

私と他者違う肉体に宿っているというだけ

それ以外どこも切り離すことはできない

私たちを取り巻いてるすべてとも切り離すなんてこと

 

私たちは

無数の他者の集まり

他者はこの私を成している、と

 

内なる他者をすべて抱きとめるとき

そのすべてを観てる存在を

あるとき己の中に私たちは観るのです

 

 

聖書のなかでワタシという方

聖書の中でワタシという方に会いたいと

幼い私は思いました。

ワタシという方は私の中に。

そうワタシという方は私の仁なる方でした。

 

種の中のさらなる中心なる方でした。

ですから宗教は関係ありません。

あなたが何を信仰していようが

あるいはしてまいがまったく関係ありません。

 

人間存在の格の問題ですから

宗教の違いは問題ではないのです。

その格の存在を突き詰めることにおいて

実際仏教はとても助けになりました。

 

聖書の中のイエスの理解に般若心経は

私にとってはとても参考になったのです。

特にも秋月龍みん氏の「般若心経の智慧

何度繰り返し読んだか分からないほどです。

 

格なる方に出会った人々が語り伝え

形をなしたのが仏典であり聖書なんですね。

また昔から語り継がれてきた物語にも

同様の意が読み取れ感動します。

 

 

 

 

他者に生かされて

食べたもので私の体はできていて

想ったもので私の魂は維持される

 

想ったものは次つぎにうつりゆき

なので私は一瞬一瞬死んで生きる

 

私というものは元々なく数多の命

他者が私を生かし私は生かされる

聖書でいう永遠とは”いま”

 

昨日のことを悔やむ

昔の出来事に苦しむ

愛する者の死を悼む

それはいつも”いま”

 

明日をあれやこれや

想像しては心を痛め

我が子の将来を悲嘆

それもいつも”いま”

 

すべてを受けてこそ

生きることができる

いまを生きるという

道元而今の”いま”

 

 

 

 

 

生かされて

さまざまな思いが底から上ってくる

取るに足らない小さな想い

退屈だな 寂しいな つまんない

あっ猫がいた(うれしい) 

誤解されたのかな(悲しいな)

その一つ一つが私を成している

 

遠い国の紛争かの地の災害

私の心の中に写り込む諸々

私の心をかき乱し不安に落とし込む

その一つ一つが私へのメッセージ

メッセージが映し出すのはわが心

鏡は今日も私を映し出す

 

 

 

「私を誰と言うか」

生きてるなかであなたはイエスと呼ばれた方に出会う

そのときあなたは問われる「私を誰と言うか」と

エスと応える必要はないあなたの言葉で答えればいい

人間であれば必ずや問われる日がくるそのとき

あなたは独りでその問いに答えなければならない

答えないという選択も与えられているけど

ちょっと退屈な人生になるかもしれない

そしてこの問いに人は己の人生を賭けることに