地下流

キリスト教入門は神秘体験からだった

それ以前にも日曜学校に行ってはいたけど

ひかりの洗礼を受けるまでは

ただ訳も無く行っていただけの

退屈な時間でしかなかった

こどもだったから理解できませんし

牧師さんのお話が終わりやれやれと

敷地内の庭に降り立ったそのときでした

なにげに空を見上げた私の額を

光が貫いたのです

 

これが私にとってすべての始まりでした

 「神は愛である」その日聞いたばかりの

言葉がひかりと同時に走った

 

このときからさまざまなことが起こった

そのどのひとつも忘れることのできない

凝縮した日々が続き

 

神は何ものなのか

人は何ものなのか

いのちとは

問いが自ずと湧いてきた

 

こどもにとってはとてつもなく大きな問い

当時を振り返るとまるで毎日が地球を背負って

生きてるかのような感覚だった

 

なんと重いものを背負ったものか

背負わされたものでしょう

 

それから数十年もだえあえぐ私の

その謎解きに手をかしてくれたのは

むしろ仏教であり日本昔話だった

私が日本人であるところによるのかは知らないけど

聖書では読み解けなかったものが

読みこんでいくほどに腑に落ちるようになっていった

 

不思議でもなんでもない

今の私はあたりまえのこと思っている

なぜならすべてはひとつところから

流れでてて表に現れているのはただ単に

その支流なんだから

その地下流は生命そのものであって

生命(いのち)はひとつながりなんだから

 

体験を通して子どもの私がとらえたのは

あまりにあたりまえの世界だった

もしこの世界に神様がいるとすればこの方しかいないと

それほどに根源的な存在だった

何教何教と区別できる世界なんかではない

まして宗教の枠におさまるような方ではない

そう生命(いのち)の根源の方だったから

 

神とは?

人とは?

生きるとは?

この根源的な問いは

小学生の時からずっと

私を解き放すことはなく

通奏低音のごとくこれからもずっと

私に纏わりついていくことでしょう

極め尽くすことなどできない問いであり

創造主からの私たち人間への問いかけなのだから