私という人間

かつて私という人間は芯の芯に存在すると思い込んだ時期がある 10台半ばから30台の始め頃までだったか 己の芯へ向かって何度も何度も旅を試みた 闇の中へ向かって船を漕ぎ出すようにそれは激しい魂の底からの欲求だった しかし都度その願いは跳ね返された 私は何者なのか 人間は何者なのか 神は そして私の魂は一体どこにあるのか どこで生まれどこからやってくるのか 当時バブルの只中にいた私は美食へ旅へと青春を謳歌しつつもしかし持て余すほっどの問いに己を誤魔化しつつもこの思いは低層通音のごとく内奥でなり続けた

長い時をへ今私がたどり着いた場に私はいない いないからこそいる いないときにこそいると言い換えてもいい 己を空じるとき芯なる方あるいは真なる方は姿を顕す 捕まえようとすると煙と化す ただ全部手放したとき顕れる誰かがいる あるがままの己をこの手に掬い上げ受け止めるときその方は姿を顕す 般若心経の色即是空空即是空

いつの日か

そぼろ降る雨が物足りなさを呼び起こす 小さな温もりがない その寂しさをなんとはない日常の会話で埋めていてくれた妹も病であっという間に逝った 震災で家族全員を無くした男性が「気力がわかない」と取材に応じていたのを思い出した 母も兄もいる私ですらそうなんだからそりゃそうよね 日に何度もワンコと妹の名が交互に口をついて出てくる 私にとって目に見えるものとそうでないものとの差はあまりないと思っていた けど温もりがないのは生身の人間には辛い 妹には夫も息子も娘もいるから私がそうしゃしゃり出ることはない でもワンコには私しかいないだから私だけはずっと思っていたい 思っていればのの子は私の中で生き続ける ただそのたった一人の身内の私が十分愛してやれなかったことが悔いとして残ってる 忙しさにかまけて十分構ってやれなかった だけどある日思った私があの子にではなくあの子が私のためにやってきたのだと あの子は私に私の未熟さを愛の薄さを教えに来てくれたのだと そのことを私に教えるためにやってきてくれたのだと 早くそっちに行きたいと思った時期もあったけど私があなたを思うときあなたは私の中で私と共に生きる その日は確実にくるその時は心ゆくまで抱きしめたい

”ゆりなさん”へ

h「わたしの在処」というタイトルでゆりなさんが綴った言葉

 

耐えきれない。

自分が汚れていくことも。

世界の汚い部分を知ることも。

この世に存在しているだけで、

毎日汚れた言葉が私の耳を通り過ぎていく。

聞き入れてしまったら心が濁る。

墨汁を垂らしたように、

私の心は黒く染まる。

「一度染まった汚れは、

一生落ちないのではないか」

自分の体に染み付いた汚れを確認し、

そして怯える。

私はその恐怖から常に綺麗事を求め、

社会への入口を自ら塞ぐ。

自分も、世界も、完璧でないと気が済まなかった。

 

以上はひきこもり文学の中で”ゆりなさん”の分の一部

それが私にはとても気になった。なぜなら汚いことを避けているとどうなるかこれまで多くの文学や映画はては昔話もその結末を微に入り細に入り描き出してくれている。

例えば「嵐が丘」(エミリー・ブロンテ)、ジキルとハイド 魔笛などなど

黒い(汚い)ヒースクリフを通して描かれた己の闇を遠ざけたことにより己(キャサリン)は瓦解する。

映画「Mary Reilly」(ジキル&ハイド)で描き出されたのは己の中で肯定できるジキルと隠しておきたい闇の面ハイドを統一することによりメアリーはようやくひとりの人間として旅だつことができた。

実は私自身幼き頃からのキリスト教の影響からだと思われるんだけど綺麗なところだけを追い求めた。結果私は見事に分裂した。そこから脱するきっかけとなったのは全てを受け入れるという自らの決断だった。それこそどうしようもなく追い詰められての末の決断だった。なぜなら長期にわたる分裂は自らを死に追いやりそれしかもう道がなかったかだ。これまで己の身に起きた不思議なことも含め日々感じた様々な感情も全て受け入れていった。そしてようやく私は息をすることだできた。

 

アフガニスタン

中村哲氏を取り上げた番組を目にするたび忸怩たる思いを抱く。なぜなら必ずやアメリカによるアフガニスタン襲撃に触れるから。爆弾を降らせる?「ふざけるなアメリカが自ら仕掛けておいて」。

2001年9月11日アメリ同時多発テロ

テロリストを匿ったからという理由でアフガニスタン空爆

 

裏でブッシュが動いたことは私にとっては疑いようのない事実だ。誰が否定しようが私だけは否定しない。出来ない。それは己自らを疑うことだから。

事件を知ったその瞬間おりてくた言葉が”ブッシュ”だった。もちろん私にそんな知識なんぞあるはずもない。あの事件とブッシュを結びつけるような知識なんぞ。ただこれまでの己の人生で降ってくる直感を否定することは出来ない。なぜならそうしたことで魂が死んだ過去があるから。もう二度とそんなことはしたくない。出来ない。

アメリカが爆弾を降らせるんだったら俺らが食料を降らせる」中村哲さんのの言葉

いつでもいま

シャンプーしてるときよく思い出す のの子(ワンコ)熱くなかったかしらってね 自分でも熱いなって思う時なんか特に そんなとき可哀想になったり悔やんだりする のの子が逝ってすでに2年半 思い出してるそのとき私はのの子と一緒にいる

旅先で食べたマルセーユのブイヤベースあの時のテラスの情景一緒に食べた女友だち何十年も前のことだけど思い出すそのときその時すべてはいま私の中に私と共に 今は亡き妹とよく一緒に行ったあのレストランのあの味 あそこのあの食堂で食べたカツカレー 思い出したそのとき匂いも味もよみがってくる 運転できない私のため幾度となく付き合ってくれたっけ 味わった味も匂いもその時のやりとりも思い出すその時いつでも今この時 決して過去のことではないいつでもここに

 

マリアは墓をのぞいた

むかしむかし自分の墓(闇)をくる日も来る日も私は覗き込んだのでした

うめきながら泣きながら己の墓の中を

痛み・哀し・嘆きetcほうむさりたい過去のあれこれ

まいにち毎日くる日も来る日も

ある日自分があの恐ろしい般若のお面になっていることに気づきましたが

それでも震えながら覗きました

なぜそうしたのかその時は分かりませんでした

ただそうするよう促されているかのようでした

 

そうした日々が流れていったある日何かが観えてきたような

般若(悟り)という名があの怖いお面に付けられている秘密を見たような

 

聖書物語の中でもマリアだけイエスの墓を覗きます

他の皆は恐ろしくて逃げ帰っていっただけどマリアだけがという

あのお話

 

ここに秘密があったのですね

 

むかしむかし1

むかしむかし私がまだ子どもだったとき 近くにキリスト教会がありました 毎週日曜日に子どもたちを集め牧師さんがお話をしてくれました だけどボンクラな私にはちっとも分かりません 退屈で早く終わらないかとお話の間そればかり願ってました そんなある日のことでした ようよう終わりほっとして教会の中庭に降り立ち空を見上げたその時でした 光が私の額を貫いたのです ”神は愛である”と言う言葉と共に その日の聖句でした 説法の主題です まるで雷に打たれたかのようなと言う表現がありますが全くそんな感じでした 何があったのか何が起きたのか その事件の後初めて自ら聖書なるものを手に取りました 私は何を思ったか聖書の中で”わたし”と言う方に会いたいと

「わたしの後従いたい者はおのれを捨て日々自分の十字架をになってわたしに従いなさい」 自我を捨てることだと子ども心にも理解しました そしてその方は相を顕されたのでした 私の心奥にいらしゃいました そう真のわたしだったのです つまることすべての人の真我です 聖書も般若心経もこの方のお話でした 法灯明自灯明 おしまい