ストーリーストーリー

むかしむかしずいぶん前のことだがそして経緯も忘れたけど「日本昔話の霊性」と言う本に出会った 日本人ならおそらく誰でもが知ってるであろう昔話 それを深層心理学の立場で読み解かれていてそこに聖書物語そして仏の教えを観た 教会で聞かされた聖書の説教に違和感を抱いた子どもだった私にはどこがどう変に思うのかと知る術はなく ただただ己の感性とのギャップにもがき苦しんだ それもずいぶん長い間そう思春期から30代後半に掛かるまでの長い期間苦しみ続けた あれがストーリーだと教える人気づかせてくれる人はいなかった そうあれはストーリー 真実に触れた人たちがどう市井の人びとに伝えようかと心を砕き言葉を尽くして語られてきた物語 だからこそどこかの何かの言葉がそれに触れた人の魂に触れ魂を呼び起こし覚醒させる 

海の中に母が

着なくなった服と共にのの子の服やブランケットも一部を除いてゴミ袋に入れた

後悔も一緒に入れた もっと愛してやれば良かったもっと早く一緒にいる時間を増やせば良かった しかし死んだ時ホッとしたのも事実 17歳半と犬としては高齢で心臓もやられていた 歩くことも不確かになりクルクルと回っていたそれは認知症の印だとも聞いた だけどもっと何かできたはずだもっと愛せたはすだ そのことも忘れない忘れようとは思わない 感じたこと思ったこととともに一緒に沈むそのことの神秘・文字通り神様の秘密を知っているから

辛くなったらそこでやめれば良い だけどできるだけ己の内なる負を受け止める 嫉妬・怒り・哀しみそれらの沼に降りたつ そこで何かを知るからそう何か真実に触れることができるからだ 耐えられなくなったら逃げる 無意識の中に逃げてる事も度々あるそしてそれでいいのだと思う 沼と言ったが海の方がより的確かも なぜなら文字通り母は海の中にいるから フランスでは母(mère)の中に海(Mer)がと誰か詩人が言ってたね

私の中の他者

散歩中のワンコを見かけると2年前に逝った愛犬のの子がまとわりつく温もりとともに

 

水が欲しいと観葉植物が言う水をやる私の渇きも癒される

 

喉を通り胃へ落ち込みコーヒーが身に吸い込まれる

 

好きになれない人をそれとなく観察その仕草のあちこちに己のあれこれが

 

窓から見える空見てる私の中にその空が

 

のの子を洗ったあの日がふと蘇るお湯熱すぎたんじゃないかって心配す

 

木から気が立ち上っていたのが見えたそうか木と気は同元か

 

道端のムラサキカタバミの赤い花が揺れる私のこころはゆるむ

 

風は私の頬を撫で木々の間を抜け再び私を包む

 

見たもの感じたもの触れたもの食べたもの匂いそのすべてが私

 

有栖川宮記念公園を友と散策したときヘビが枝を伝って近づいてきた何か意思を持ってるかのように見えたが何も思い当らなかったいつか知るときがあると放った数年後謎は解けた

 

気になるもの気になること気になる人と密接に繋がってることこれまでの生で知った

何を私に伝えようとしてるのか自ずと問いかけるそして知る外は内そしてウチはソトと

 

 

 

VR

現実と仮想の違いはそう明確ではないのではないのではないかしらん

目の前のこの目に見えている世界ですらそもそも目のそのレンズが写し撮ってる

それを私たちは現実と思っているだけではないかしらん

肝心の目の働きそのものが人によって違ってくるだろう

目だけの問題だけではないそもそも私たちは各々が見たいように見ている

見方感じ方すらその人のこれまでの環境によって身につけたもの

また知らず知らず身につけさせられたもの

そうだとすれば真に確かなことは「させられたモノ」を慎重に一つ一つはぎ取り

私が今ほんとうに感じてること思ってることをすくい取り探してあげないことには

真の己には出会えないということではないかしら

それにはどんなにちっぽけな思いだろうとどんな醜い思いだろうと否定せずおし殺さずその手に掬い取って見てみることしかない

そうすることで初めて真になにを思いなにを感じているのかが見えてくるのだと思う

 

 

日常の中にこそ

当たり前の日常の中にこそ本当の奇跡は隠れている いや隠れているというのは正確ではない 隠れているわけではなくこちらに観る力がないだけのこと 今この私が感じていること思っていることの中に大事なものが潜んでいる たった今あなたが思ったこと感じたことそれらの一つ一つを隠すことなくそのままをあなたの掌にすくいとる そのことによって その裏に隠れているのものの本性が顕れる 観たいと思った人にその姿は映し出される あなたの持ってるあなただけの鏡に そうそれは鏡を通してでしか観ることはできない 神を私たちはこの眼で見ることができないように 天より与えられている鏡この宝物を使って初めて私たちは真を見ることができる 観ようとしない人あるいはそんなことと頭から否定する人は観ることはできない それは自ら扉を閉める行為だから 

UFO

絵も言えぬ音のねで目覚めた

喩えれば”未知との遭遇”で流れた音のような

私が寝ているアパートのその真上から溢れ流れてきたその音を聴きながら

上を覗きたいと思ったのだが体が全く動かなかった

金縛りにあったみたいに

 

その動かない身の中で頭の中で思った

「明日はさぞかしすごい騒ぎだろうな 東京は」

ラジオも通勤の電車の中も会社でも誰もなにも喋らなかった

 

 

 

 

激?レア体験

今週のお題「激レア体験」

 

激レアかどうかは分からないが、私と同じような体験した人にこれまで出会ったことがないのでレアかも知れない。

多分10歳くらいだったと思う、当時キリスト教の日曜学校なるものに通っていた時の出来事です。退屈な時間が終わり子供心にほっと中庭に降り立った時、光の束が私の額を貫きました。私は金縛りのようにしばし動けなくなりました。光は言葉も伴っていた。「神は愛なり」それはその日の聖句というもので、直前牧師の口から聞かされたコトバでした。

そんなことがあって私は初めて自ら聖書を手にとってみましたた。いくつかの聖句が子供だった私にも突き刺さりました。

聖書の中で「わたし」という方に会いたいと思ったのです。

 

「わたし」は私の中に在った。私の中から応えられた。

 不思議な体験が続きました。けれどある日私は気づきました、誰もその事を知らないようだと。目に見えるこの世界だけではない、目には見えないけれど確かに存在する世界があるということを。

思春期を迎えた私は自分がおかしいのかと思うようになったのです。自分を受け入れられない己を否定するということがどれほど人の人生に重く暗く覆いかぶさることか。その後続くこととなった暗く長いトンネル時代のことは省くけれども、結果私の半生はその闇との戦いでした、と同時にあの時観た世界への探究ともなったのです。”人間とは” ”神とは” ”生きる意味とは”。

高校生時代授業時間以外は図書室に、社会人になってからはことあるごとに公演を聞きに行ったり、書物を漁ったりもしました。しかしどこにもなかったのです。誰にも出会うことはなかったのです。

30代後半私はほとほと生きるのが嫌になっり、生きる意味を見出せなくなっていたのです。生きるということがこんなものなら生きる魅力がない、こんな生ならこっちから蹴飛ばそうと思ったのです。自殺するとかそう言ったことではなくただただ蹴飛ばそうと。

 と言ってもそれまで国内外への旅行友人たちとの食べ歩き等たっぷり青春を楽しんだ挙句のこと。たっぷり楽しんだ後ああつまんないと。

ところがその前にあの原点に戻ってみようと決断したのです。その決断で全てが変わり全てが起きたのです。実に多くのことが起きたけれども決定的だったのはある神父と出会いでした。喉から手が出るほどに求めた方でした。この出会いをきっかけに自分を受け入れることが出来るようになっていきました。しかし真に己の存在を全面的に受け入れるようになるのはそれから大分後のことです。師の著書をはじめとして多くの著書文学オペラなどを通し自分に起きたことの意味を知るようになりました。改めて思ったのは決断さえすればコトは起きるということ。なぜなら「嵐が丘」もモーツアルトの「魔笛」も神秘家エックハルトも決断さえしてたなら当然出会うことは十分可能だった人たちですから。

さらに仏教への道も用意されていました。上智大の教授であり神父さんでもある方の手引きで道元禅師の正法眼蔵にも触れさせていただき、後に秋月龍みん氏の著書「般若心経の智恵」には多くの示唆をいただきました。全てを受け入れると腹を括ったことによるプレゼントです。

 

そして分かったことは人間存在の神秘的根源に出会った人たちがこれまで多くいてその体験をそれぞれの文化民族を背景にそれぞれの方法で心を砕き伝えようとしたこと。

私がこどもの時の体験もそこに尽きます。人一人とともなる存在が在るということをあの体験は如実に語っていたのですから。一人一人個性がありそれぞれ違うように当然民族が違えば表現方法も異なります。伝統を背負った表現になるでしょう。根っこは一。

 

God dwells within you as you.

God dwells within me as me.

                           by [eat pray love](映画)