一滴の水が

『本当に魂のことをしようとねがう者は、一滴の水が地面にしみとおるように、それぞれ自分ひとりの場所で、「救い主」と繋がるよう祈るべきなのだ。』3たび「100分で名著 大江健三郎 ”燃あがる緑の木”」から

 

己が掘り下げた穴によってしか「救い主」には繋がらない。

いくら聖書を勉強しようとも招かれたときその招きの穴に入っていく決心をしないかぎり「救い主」には出会えない。

聖書はそもそもその穴への誘いであり招きであり呼びかけなのだから。

 

決心さえすればその後は「救い主」自ら運んでくださる。

 

 

自分は無 2

写真以外ではもう一つ

演劇って?

こちらはいつの頃だったか

「ああそうか!そうなのか!」

演じることは他者を己の中で生かすこと

元々己の中に在った存在を再び生き返らせ

そのことによって己の生命を甦らせるんだと気づいた。

 

最近あるTV番組で2人の俳優がいみじくも言った

「なるべく自意識をなくしていきたい。こう演じようみたいなことを無くしていった先におそらく良い演技があるのだ。音楽も役者の仕事もそこは共通だと思っていて無になるというのがおもしろいしそこに何かの表現があるんじゃないかなって思ってる。」by星野源

「役者って入れ物なんで器は空っぽなんで毎回役が入っては出て入っては出ていってということをするんで果たして自分って何って言われても困るんです。あなたは何者なんですかって言われてもごめんなさい僕空っぽなんですっていうのがホントの答えなんです。いろんな人にもなるわけじゃないですか。人殺しにもなるし良いお父さんにもなるし宇宙人になることだってできるっていうただの入れ物なんでホントに何者でもないんです。ごめんなさいって気持ちが多いんです。」by松重豊

 

私たちは自然(じねん)無数の生命を生きてると私は実感している。

そう言うと「へっ!」って思われるかも知れないけどこれは静かな実感です。

つまり奇妙なセンセーショナルなものなんかではなく毎日の実生活の中にあるあたり前の実感です。

例えばある時私の心に流れる言葉はかって幼いときに言った母の言葉だったり、近所の遊び友達の言ったことあるいは仕草がふとした時にフラッシュバックすることもあるし、映画のなかのあるいはTVの中のある演技者の言葉で占められている瞬間もある。

またあるワンシーンがふと甦ってそのシーンの中に自分の心が生きてることがある。

目の前の人の言った一言にこころが揺らいだりその人のしぐさで占められたりするわけなんだけどそういう意味では自分と他者とか分けることできないじゃないかしらん。

 

 

 

 

自分は無

写真の芸術性って?

という疑問をずっと長い間探し求めていた若い時分

その疑問は浅井慎平伊丹十三との対談で言った一言

伊丹「写真ってなんだね」

浅井「目だね」

ってこんな感じだったと記憶しているけど

この一言で自分なりに腑に落ちた記憶がある

目=観音菩薩

 

 

人は苦しい時や辛い時に必要としている本に出会う

人は苦しい時や辛い時に必要としている本に出会う

 

これは大江健三郎が言った言葉として

たまたまつけたEテレ「100分で名著 大江健三郎『燃えががる緑の木』」で紹介された

 

私の体験でも同じことが起きた

も少し言葉を足すならばその一冊に出会うまでおよそ20年以上苦しんできたわけなんだけどその出会いはまさに劇的でその時の私は己の足を持って踊りたくなる程の喜び衝撃だった

なぜなら苦悩の長年月の間もずっと求めて生きていたのに出会うこと叶わなかったのだから

そして出会った後で気づいたことだが

私の場合己れがしがみついてる手を離したその時出会いが起きたということ

あの方はその時を待っていたのだ

かつその長い苦悩の期間が私には必要だったということも

自ら手を離すのにそれほどの時間が私には必要だった

 

しがみついていたものそれは

「そうだよ」という同意だったのだ

そのとおりだよと受け入れてほしいという

他者依存だった

その願いがすべて砕かれたときようやく決断できた

「受けいれる」と

己の魂の原点に戻ると

そうやって腹を括ったとき風が動き出会いが起きた

 

 

 

『注意力は祈りの純粋な形』だとヴェイユは言っている

タイトルはEテレ「100分で名著 大江健三郎 『燃える青い木』」から

続いても同番組から拾ったもの

 

今何が苦しいのだろうということやどうしたいのだろうということでもそれは”祈り”

目の前の人に向かって

「あなたはどのように苦しいのですか」と尋ねるまさに注意を傾けるということ

「僕にはあなたが見えています」ってことじゃないですか?(by伊集院光

見なかったら存在していない

意を傾けることによって苦しんでいる人たちは僕たちの前に一人の人間として存在しうる

見てるよという言葉は励まされる

注意というものは祈りというのは人を支えるもの

  

 

これはそっくりそのまま自らに向かって行うことで良く理解できると思う

私の場合内に向かって問いかけたときすべてが始まり

既成の宗教的思考に依ったとき自らを見放すに至った

 

己を取り返す切っ掛けそれは源点に帰るという決心と

それによって己への注意注視注目で再び己を取り戻すに至った

ということにこの放送で改めて気づいた

そしてこれは当然他者に対しても同様に活らく

なぜなら内なる己は他者だから

 

 

 

マリアさまと観音菩薩さまは

マリアさまと観音菩薩さまはママンの最高位

私たちがあらゆるものをそのままに受け入れたとき顕現する

マリアさまが近い人にはマリアさまが

観音菩薩さまがより近い人には観音菩薩さま

以外の方を持つ方々にはそれぞれにそれぞれの存在が

 

そう私たちの内で眠っていた聖母神が顕われるのです

聖母神はすべてを受け入れる方

マリアは「成れかし」と

神からのメッセージを受け入れ

神の子を宿した